24/06/24

返事📨
食用菜っぱ 2024.06.25
誰でも

 出かけがてらにポストを覗くと、祝日さん(たくさんの通り名を持つこのひとのことを、私のなかではなんと名づけようか決めかねてる)のZINEが届いていた。ポストに入った、質量のある不意の荷物ほど喜ばしいものがあるだろうか。フォントが私好みのシンプルな冊子を、ミスドで開封してひと息に読んだ。ZINEやフリーペーパーは、ほんの少し手もとが狂ったり、収納場所を誤ったり、わずかなきっかけで折れたりくしゃくしゃになったり、ちょっとした汚れが思いのほか目立ってしまったりするもので、そういうところも含めて好きだと思う。一瞬でゴミになりうる紙ものをあえて大事に大事に大事にすること、力を抜いて、指先だけでそっと触れるその手つきはたまらなくうつくしく感じる。所作、という好きな日本語のことを思い出し、枠外に走り書き。でかでかと書かれた右肩上がりの文字を見て、いい心意気だよ、と思う。私たちはどうやら同じ日にSunday Bake Shopにいたみたいで、そればかりか、その辺りで何度かすれ違っていそう。こういう距離感のこともとても好きだけれど、これからどうするんだろう、どうしたいんだろう、私。ぽつんと落ちてきた、間違えたくない、という言葉。人間関係を引き算で考えるんじゃないよ、近頃何度か自分に言い聞かせていること。

 なつなさんがちょうど車で京都に向かっている。昨年末ブラジルコーヒーのときにも思ったことだけれど、リアルタイムで更新されるなつなさんの足跡を追うのすごくたのしい。私も、思い切ってどこかに飛んでいきたくなる。こう書いてみて、ちょっとちがうかもしれないと思い直した。だってほんとは、いくぞ、と奮い立てばいつだって拾えるところに、私の旅も落ちているはずでしょう。確かめている。この生活と地続きの場所に、一見すると日常らしくないものがおちているんだってこと。羽がなくたって、飛べなくたって、案外どこへでも行けるんはずだってこと。「来なよー」というさらっとした一言を、こんなにうれしいと思うなんて。なつなさんの口から出てくる言葉ならば、来るでしょ、来れるでしょとか、あなたは来たほうがいいよって意味だと思うから。さらっとまた夜行バスに乗っていそうだし、まあ実際乗るのだろうな。うん、私行くべきなんだと思うよ。染めものの展示でひとめ惚れして買った正方形のちんまりとしたカードに、短くメッセージを書いて渡した。いつもこれくらいの軽やかさで、手紙をおくれる私であれたら。

 「ひなこ」という本名を知ったとき、まさに祝日ですね、と考えたことを不意に思い出している。考えてみれば、かぶっている部分があるわけでもないその名のどこに「祝日らしさ」を感じたというのだろう。封筒の裏面にある手書きの文字、初めて見る漢字表記。予想していた字面とちがっていたのは、なんだか宝石箱みたいだった。

 色か、色なのかも。私のなかでは、「ひな」も「祝日」「祝(いわい)」も金色が混じった、光沢のある黄色のイメージであるような気がする。元はぱっきりと黄色かった、もうくすんでしまったひとつ前の日記帳を見ながら。

 手紙や包みを出先で開封すると、なんだか儀式めいてくるところが好き。人の目があって、平常よりも少なからず自分の仕草に神経をとがらせる場で、できるだけうつくしいままにしておきたいものを扱うから。

 昨日のライブのイメージが、やっぱりだめだな、どんどん霞んでいってしまう。簡単なメモでも残しておくべきだったのに。ライブ後に人と会う約束を入れてはいけない。「その日に書かれたものであること(日記の日記らしさ)」って、私が感じている以上に大事なことなのかもね。

 昨夜、高揚のまま帰宅して、自由な食欲にまかせてわぐわぐと食べた味玉に醤油味がしっかり染みていた。その瞬間のごきげんな気分が、味玉よりも長持ちしている。(ちょろすぎる)

 「これからどうしたいの?」「10年、20年先のことを考えて」最近頻繁に浴びせかけられる言葉に対するかみ合わなさに、じわじわと蝕まれている感がある。「結局」とか「かわいそう」という言葉にずっと反感があるのは昔の名残りだけれど、たとえ皮肉な意味合いだったとしても、ぽろっと使う機会が増えている自分に少し驚いてる。この驚きには、多少のネガティブな意味も含まれている気がする。言葉遣いひとつに表れる人格って、ほんとうにそうだ。選択なんだよね。これまでの。「咄嗟に出ちゃって」だなんて、甘いんじゃないかな。

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