24/04/30

💐🥛🌸
食用菜っぱ 2024.05.01
誰でも

 ようやく春を超えられたのかもしれないな。

 常にストックしている牛乳をうっかり切らしてしまうと、ぬかった!って声に出して言いたくなる。ぬかりましたね。

 帰りがてらに寄ったスーパーで冷凍の梅ヶ枝餅が売られていた。一年前に福岡を旅行したとき、そのおいしさに私はいたく感動して、無理やりお土産用に買って帰ったり、同時期に福岡に行く予定だった人に熱心に薦めて、「それほどじゃなかった」と言われたり、いくつか不発をかました覚えがある。こんなにも虜になったのは『君の膵臓をたべたい』が大好きだったせいかもしれないけど、あくまで梅ヶ枝餅そのものがおいしかったのだと主張したい。でも冷凍かあ、と思い買わなかった。

 レジを待つ列に菓子パン一つだけを持った高校生が並んでいた。店を出たところでは、別の高校生がストローを容器に刺して飲むタイプのカフェオレ(かはわからなかったのに、どうしてそう思ったんだろう)を飲んでいる。ああいう買い物の仕方が、牛乳や緑色の野菜や生肉や卵を詰めたエコバックをぶら下げた生活感のある買い物より、ずっと好きかもしれない。

 自炊って一人暮らしのことばだよな、と思う。家族がいたり同棲をしている人がこの言葉を使うところを、あまり聞いたことがない。なんというか自炊という言葉そのものから、自意識がだだ漏れている気がする。さあさあ、私が、私が料理というものをやっています!やっている私がえらいのです!みたいな。えらいには違いないのだけど。料理が当たり前になっていくほど、自炊なんて言葉を使わなくなっていくのかな。それが「誰かのための当たり前」になるせいじゃなければいいな、と思う。あるいは料理が好きな人ほど使わない言葉なのかもしれない。中学校の淀んだプールから蛙の声が聴こえる。

  滑らかに舗装された車道と、でこぼこガシャンガシャンと、買ったばかりのヨーグルトを崩しながら進む歩行者用道路。前者を使うことがほとんどだけど、稀に後者を行きたくなることがある。今日は静かな道で帰りたい気分だったけれど、ガシャンガシャンで気分が落ち込みそうだったからいつもの道をいく。

 手紙を受けとると、でも今はもう、こういうふうに思ってくれたあなたではないかもしれない、という不安に駆られる。即時性のあるLINEやDMにはない感覚。時間をかけて届くものほど、うつろいを如実に突きつけられるような気がする。書く側に回っても、大抵は相手に渡るぎりぎりに書こうとしてしまう。インスタに載せるために風音さんについて書きながら、これは私単体にとっては真実にちがいないのだけれど、それでも、直接彼女に会ってからもう二ヶ月以上が経っている。私が思い浮かべている風音さんは言うまでもなく二ヶ月前の風音さんで、それ以上のものはもちろん書けないけどそれでいいのかな、という気持ちになる。

 文章でしか知らなかった頃は、「風音さん」というイメージが私のなかでいわば確立していて、当たり前だけどそれが揺らぐことはなかった。揺らぎようがない。だって私は単なる読者の一人で、風音さんが積極的に届けてくれるものを通してしか、彼女を知ることができない。「よまれる」「みられる」前提で何かを創ることって、そういうことなのかなと思う。この日記だってそう。一種の演出と、無縁ではいられない。

 でも、私はもう、たった一度きりだけど風音さんに会っていて、風音さんだって、昨日笑えたことに今日は笑えなかったり、好きな食べものが増えたり、想像もできなかったようなことが今起こっていてまるっきり人生が変わったり。そういうことが起こりうると知っている。今の風音さんは明日には、次の瞬間にはもういない。だからこそ、そのひとの一瞬や一面を捉えることしかできない「紹介」を、できるわけがないと思ってしまう。気軽にしていいものでもない。私の言葉を通して「風音さん」を知る人がきっといるはずで、それってすごくこわいことのような気がしてしまう。

 一方で、普段は、そういうことを不思議なくらいに忘れていると思う。特に著名人や、テレビや作品やSNSを通してしか知ることができない人を相手にしているとそう。私もみんなも、どうして、こんなにも簡単に相手を「知っている」と思ってしまうんだろう。「こういうひと」というのっぺりとして画一的なイメージを、ホンモノと信じて疑わない。それとも、信じるしかなくてそうするのだろうか。

 ただ今回、書きながらこういう違和感に気づけたということは、風音さんはもう私にとって、まぎれもない生身の人間で、たった一度しか会っていなくても、もう十分私という人生の登場人物のひとりなんだ。そのことを無性に嬉しいと思う。そしてそうしたのは、読者としての境界を踏み越えると決めたのはまぎれもなく私自身で、そのことが、本当に嬉しくて仕方がなくて。それと同じくらい、既に私が知っている風音さんではなくなっている、その風音さんを知らない、という事実がさびしく、また長野に行きたいなあと思ってしまう。

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